カメラマンのお仕事、2年目のはなし⑧

私は現実主義なほうではあるが
それはあくまでも
人間の理性と本能においてであり
こと、
スピリチュアル的な事に関しては、
一般的な人よりも比較的信じている人間である。

小学生の頃、学童保育の先生が
「気」の留めかたや「オーラ」の見かたを教えてくれたのも
何かの縁だったのかもしれない。
そんな事を今の時代にやったら、たぶん色々と問題になるのだろうが
30年以上も前の話しだ。
預かり先があるだけで働く親はありがたかったのだ。
多少子供たちが意味不明な事を言い出しても、
それがまた楽しそうなら、それはそれだったんだと思う。
そんなゆるさを背景に
子供だった当時の私は、色々な技を会得した。

友達と一緒に気を留めたり、留めた気をどこまで大きく出来るか競ったり
今日のオーラは何色だね。と言って遊んだ記憶がある。
一度だけUFOを見た記憶もあるのだが、
それもこの先生とUFO探しをした時に、雲の中に隠れているのを発見した。
身体のバランスを整える体操も、ラジオ体操よりやった気がするし
先生が直接施術で整えてくれる事もあった。

文字にすると、
とんでもなく宗教的な感じもしないでもないが
精神的な情報は何ひとつ私に残っていないので
単純に「遊び」のひとつとして捉えていたのだろう。

多分だが、子供ながらに私はその手の「才能」があったのだと思う。
「興味をもつ」という事もひとつの才能として
当たり前のように気を扱っていたし
今思えば、先生はとても総合的に心と身体のことを知っていて
生きやすくなる方法を私にたくさん教えてくれていた気がする。

しかし、学童とは小学3年生までが通うところである。

残念ながら、
今の私は、当時の記憶はほとんど薄れてしまって
気は留められるが、昔ほどのパワーは無くなってしまったし
オーラも、他人に対して直感的に「この人何色!」と思うことはあっても
色ごとの状態についてはわからない。
日常的に視るには随分と鈍ってしまっている。

まぁ、そんな風に、
少しだけスピリチュアルな幼少期を過ごしたお陰なのかはわからないが
私はずっと、
私に必要な物は、私が意識しなくても、私の周りに存在する運命にあると思ってきた。
思ってきたと書くと少しだけ違うのだが
とても感覚的に当たり前にそう過ごしてきた事実を
大人になって改めて振り返り、こういう事なのだと自覚した感じである。

人は特に然り。
一度離れても、またお互いに必要な時には
運が巡り合わせてくれるような気がしている。

今は簡単に
「引き寄せの法則」とでも言うのかもしれないが
必然的に事が進む時、
どうしてもその「流れ」を感じて、「流されてみようか」と思うことがある。

なるようになるし、なるようにしかならない。
どうにでもなっちゃえ!とは違う、
悪いようにはならないだろうという曖昧な不確実さは
そんなに悪いものではない。

そんな話を少しだけ書き残しておきたい。

 

隣町に、ある空き店舗があった。

パン屋さんが入っていたその店舗は
パン屋さんが移転した事に伴い、空いていたのだが
店舗隣には蔵が併設されていて、佇まいからして、好きだった。
すぐにまた別のなにかになるのかとワクワクしてみたが
しばらく待ってみても、そんな気配はなさそうなのだ。

何にもならないのは勿体ないな…と気にかけながらも
数か月たった頃、
たまたまに前を通りかかって、店舗内に動きがあるのを見かけた。
明らかに、何かしている風である。

田舎というのは、そんな時だけは、とてつもなく「便利」だ。

ここで生まれ育ってそのまま今に至るという数名をあたれば
今、地元で起きている事は大抵にしてわかる。
もしくは、よくわからなくても、その主要人物に辿りつくことは
必ずと言ってもいいくらいに出来るものだ。

その機能を、普段の私はあまり好いていないのだが
その日は何となく、駆使してみたくなった。
嫁いで15年。
そろそろに私にもオプション追加されていてもいいはずである。

ただただ、「何か」になるのなら、それで良い。
でも、もしも
もしも、何にもならずに、あの場所が無くなってしまっては
きっと絶対に後悔する気がしたのだ。

やらない後悔ほど無駄で重たいものはない。

とりあえず、とりあえず
写真を撮ることを仕事にしてみた私が
2年目を迎えていること自体が、既に実体験であり、その結果なのだ。

やらない後悔、やって後悔

どこぞの啓発本にもよくよく書いてあるが
この2拓なら、やはり後者なのである。

いや、そもそも
やって「後悔」なんて、本当は「無い」のだ。

 

つづく。

 

関連記事一覧

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP